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おざっちの笛吹き日記

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せぬこと

世阿弥と言えば、言うまでもなく室町時代の能楽師であるが、「風姿花伝」を表わし、能のバックボーンとなる考え方を確立した人として知られている。そして、その考え方は、様々な芸事ばかりでなく、人生の指針にもなりうるような含蓄のある言葉として学ぶところがたくさんある。

代表的な言葉に、「秘すれば花」、「初心忘るべからず」などがあるが、ボクのように、楽器の演奏をする上でもためになる考え方が散りばめられている。世阿弥は、実際に演技する人の立場に立った視点からこの書を書いており、それが決して観念論ではないところが、読む人にとって分かりやすく、また心に響いてくる要因になっていると言える。言うなれば、最前線で戦う人の言葉なのだ。

さて、京都新聞では、毎週月曜日の朝刊で、「世阿弥に学ぶ」という特集を1ページ丸々を使って掲載しており、興味深く読んでいる。原文を易しく読み解いてあるので、我々にも分かりやすい。
今回は風姿花伝ではなく、「花鏡(くわきやう)」という、やはり世阿弥の表わした書物の一節からとってあった。

能を極めるには、たゆむことなく練習を積むことが大事だと説く。しかも、他の楽しみを放棄し、ひたすら能一筋に精進せよと。それが「能を知る」という境地にまで到達させてくれる唯一の道であると。ボクが、なるほどと思ったことは、20歳~35歳ぐらいまでは、ひたすら道に励むこと。そして40歳からは、芸を控え目にし、「わざ」を抑制するような演技をすべし。さらに、50歳以後は、「せぬこと」が演技の基本となるのだ、という下り。当時の寿命が50歳ぐらいだったから、現在に当てはめてみると、ボクなんかは、すでに「せぬこと」の年代にかかってきている、ということになるだろう。

「せぬこと」、、、つまり解説によると、演能の回数を少なくし、演技は淡泊に、舞も振りを少なくして、華やかだった昔の名残りだけを見せるようにするべしということだ。
う~む、だけどそれは、一定のレベルに達した人のことを言ってるのであって、ボクのような凡庸な人間には当てはまらないのかもしれない。先日聴いた、フランスの名フルート奏者、マクサンス・ラリューの演奏は、まさにそんな感じだったが、「せぬこと」とはつまり「枯れた味わい」、ということだろうか。

この段を書いたとき、世阿弥はすでに老境に差し掛かっていたのだが、さらなる高みを目指すための自分自身への決意表明が、ここには込められており、高齢化社会を迎えた日本人へのエールとして聞くならば、その言わんとする言葉の深みに、思わず姿勢を正すおざっちであった。

今日は、その他にも徒然草に関する本を読み、とかく難しい感じのする古文にも、自分が生きていく上でのヒントがたくさん隠されていることを知り、ちょっとこっち方面を勉強してみようと思った一日であった。、、、って、午後から昼寝してましたが(笑)。
by ozawa-sh | 2014-01-28 20:52